コロナ禍の怖さの本質

 SARS-CoV-2、つまり新型コロナウイルス*1自体の毒性が怖いわけではないのではないかとの意見は未だに根強いし、良く聞く(見る、読む)。
 キチョーも当初は同意見だったし、今では当初よりはウイルス自体の怖さも重く見ているけれども、怖さの本質はウイルス自体の毒性ではないと最初から確信している。
 怖さの本質は、ワクチンがないことでも、治療薬(特効薬)がないことでも、医療崩壊の可能性でもなくて、「人類全体がこのウイルスを恐れることに決めた」ことに尽きると思っている。
 一番怖いのは人間なので、このウイルスを恐れない行動に出る異端者は多かれ少なかれ全人類を敵に回したような格好になる。
 なので、少し賢ければ大体の人は遅かれ早かれ、この決定(このウイルスを恐れることに決めた)の賛同側に回る。キチョーでさえ、電車に乗るときはタオルで口元を覆うようになり、先週の日曜には出かける時はマスク着用に決めた。
 今の我が国が(世界が)、リスク管理の段階にあるのか危機管理(のリカバー)の段階にあるのか、見誤ると怒られるのかも知れないが、キチョーはまだ我が国についてはリスク管理の段階であろうと思っている。
 リスク対策の態度は「回避」「軽減」「転嫁」「受容」があると研修で習った。一口にコロナ禍と言っても識別できる負のリスクは多岐の項目に渡るだろうが、人類総体が「受容」に態度を決め込んだ項目はほとんど無いように思う。未だ良く見る毒性怖くない論者の言うことは、受容しても「今年は悪質な風邪で死ぬ人がちょっと多かったね」で済むのじゃないかと言う論だけれども、流石にそれで済むとはキチョーは思わなかった。世界はもうちょっと面倒臭いのだ。
 面倒臭くない世界は、例えば極端にとんがった意味での資本主義だ。世界の大半が極端にとんがった資本主義で回っていれば、受容できたことだとキチョーは思う。コロナ禍で医療への需要が高まったら、かかる治療費がそれに見合うだけ値上がりすると言う論法になる。そう言う世界であれば、感染者数(医療への需要)の高まり具合とそれに応じた医療費の値上がり状況を見ながら、人々は、感染しないように・感染しても重症化しないように、最大限に工夫して節制(今でいう自粛と同様の行動)をしていると思う。
 極端にとんがった資本主義を、極端にとんがった社会主義をに置き換えても受容で乗り切れる(それまでの生活様式を変えない)シナリオがあったと思う。別なイデオロギーでも、同様シナリオがあったろうと思う。人類の智慧として「まとめ」された多くの(あるいは大半の)イデオロギーで、受容で乗り切れるシナリオがあったと言えるのではないかと思う。
 結局は○○主義の一言では律しきれない人間の複雑さ(面倒臭さ)のために、このウイルスを恐れることに決めたからには、半ばオカルトめいていてもこのウイルスを恐れ続けなければ立ち行かなくなっているのだと思う。
 生きた人間が媒介して飛沫感染するし・空気感染もすると言う知見は、充分に正しいと信ずるに足る。遺体から感染する可能性がゼロでないのは分かるが、多分呼吸していない遺体を恐れるのは恐れ過ぎだ。直近のPCR検査で陰性だった呼吸している生身の人間1人と過ごすのと同じだけの感染リスクに相当するのは、陽性だった遺体何千人分だろうかと。少なくとも、生きている自分からご遺体へ感染させることを心配する必要はないはずだ。
 だが、冷静に考えたら恐れ過ぎだと主張すること自体が人類総体への反逆になってしまうため、恐れなくてはイケナイと言う構図になっているのが、今の怖さの本質なのだろうと思う。

*1:この記事を書くにあたって「新型コロナウィルス」でググって、イは小さくしないのが普通らしいと今頃知った